司馬光(1019年11月17日-1086年10月11日)は、字を君実、号を迂叟といい、「涑水先生」とも称されました。彼は陕州夏県涑水郷(現在の山西省夏県)の出身で、北宋時代の優れた政治家、史学者、文学家です。司馬光は自らを晋の安平王司馬孚の子孫と称しています。
1038年に科挙で進士に及第し、その後は諫議大夫、翰林学士、御史中丞などの要職を歴任しました。1066年には《通志》八巻を編纂して英宗に献上し、これが大いに評価されました。後に神宗から《資治通鑑》という書名を賜り、さらに書の序文も授かりました。《資治通鑑》は、歴代の統治の教訓をまとめた歴史書で、司馬光は執筆に十数年を費やし、1084年に完成させました。
彼は熙寧年間の初期、王安石の変法に反対し、祖先の法律を重視する考えを強く主張しました。神宗に意見が通らなかった司馬光は辞職し、洛陽に退きながらも編纂作業を続けました。哲宗が即位した後、彼は召し返され、朝政を担当しましたが、まもなく1086年に68歳で病没しました。彼は太師・温国公に追贈され、「文正」の諡号が贈られています。
司馬光は博学で、史学や哲学、経学、文学、さらには医学まで幅広く研究していました。彼の文学は、辞藻を飾るのを排し、実用性を重視した「可用之文」を提唱しました。司馬光は忠直で謹厳な人柄として知られ、仲間を救うために水瓶を割った逸話や、正直に馬を売った話などのエピソードが多く伝えられています。彼の著作には《温国文正司馬公文集》《稽古録》《涑水記聞》などがあります。