遼天慶5年(1115年)、遼国の末代皇帝である天祚帝耶律延禧は、新興勢力の金国に対して二度にわたり数十万の大軍を派遣しました。両軍は達魯古城(現在の吉林省扶余市西北の土城子)と護歩達岡(現在の黒竜江省五常市西部)で決戦を繰り広げましたが、いずれも遼軍は敗北し、数十万の精鋭が白山黒水の雪原に散りました。これらの戦いを経て、遼国は完全に受動的な立場に追い込まれ、以降金太祖完顔阿骨打率いる女真軍は、遼国の各城を次々に攻略する勢いを見せました。

内部崩壊と耶律余睹の登場

金国有利に傾く中、遼国内では大規模な投降事件が発生します。保大元年(1121年)、遼東地域で緊急招集された「怨軍」の将領董小丑が反乱を起こし金軍に降伏。天祚帝は宗室の将軍耶律余睹(彼の妻は天祚帝の文妃の妹)を都統に任命し、外戚の将軍蕭干らを率いて反乱の鎮圧に向かわせました。耶律余睹は迅速に反乱を鎮圧し、怨軍の残存勢力を4つの部隊に再編し、それぞれ郭薬師、張令徽、劉舜仁、甄五臣に分けて統括させました。さらに彼は郭薬師らが野心を抱いていることを見抜き、怨軍を根絶するよう朝廷に提案しました。

「昨年、怨軍の2部隊が叛乱を起こして乾州を略奪し、降伏を許されました。今年も全軍が再び叛乱を起こし錦州を攻撃しています。我が軍が対応しなければ城は破壊され、数万人の民が被害を受けるでしょう。この怨軍は金国に対して復讐するどころか、我が遼国に叛乱を繰り返しています。今、この機会に兵を送り殲滅すれば、後患を永遠に断つことができます。」

しかし、この提案は遼国朝廷で重視されず、天祚帝は怨軍の残党を放置しました。この決定が後に郭薬師が再び反乱を起こす伏線となります。

政争の渦中と金国への降伏

董小丑の乱を鎮圧した耶律余睹は、その果断さと剛毅さを示し、一躍遼国軍界の新星となりました。彼は数万の遼軍精鋭を率いて金軍を度々撃退し、遼国内で高い名声を得ます。しかしその急速な台頭は、遼国内の政争に巻き込まれる要因ともなりました。保大元年(1121年)正月、天祚帝の元妃蕭貴哥の兄蕭奉先が、耶律余睹が駙馬蕭昱と共謀し、晋王耶律敖盧斡を擁立しようとしていると告発。天祚帝は真偽を確かめず、蕭昱と耶律敖盧斡を処刑しました。この出来事により耶律余睹は恐怖に陥り、やむなく数万の遼軍を率いて宿敵である金国に降伏しました。

完顔阿骨打は耶律余睹の勇敢さと戦術の巧みさを高く評価し、彼に旧部隊の指揮権を与えるとともに高官厚禄を授けました。耶律余睹の降伏により、遼国は貴重な野戦軍を失い、さらに彼の遼国内情の熟知により、金国に遼国の全てが筒抜けとなりました。

遼国の滅亡と耶律余睹の結末

同年12月、完顔阿骨打は皇弟完顔杲を内外諸軍の都統に任命し、完顔昱や完顔宗翰を副都統とし、耶律余睹を先鋒にして遼国への総攻撃を開始しました。耶律余睹の案内により、金軍は遼国の重要拠点である高州(現在の内モンゴル自治区赤峰市東部)、恩州(現在の喀喇沁旗東部)、中京大定府(現在の内モンゴル自治区寧城県西北)を迅速に攻略しました。天輔6年(1122年)には松亭関(現在の遷西県北部喜峰口)や古北口(現在の北京市密雲区北東部)まで進軍しました。

天祚帝は金軍の猛攻に抗しきれず南京(現在の北京市)を守備隊に委ね、自身は軍を率いて逃走しましたが、天会3年(1125年)、山西省応県で金軍に捕縛されました。これにより、遼国は約20年の繁栄に幕を下ろしました。

その後、耶律余睹は金軍に加わり北宋への攻撃にも従事、多くの戦功を挙げました。しかし、金宋間の戦争が泥沼化する中、耶律余睹は1132年に再び遼国復興を企てますが、告発され逃亡。最終的に鞑靼に逃れるも捕らえられ処刑されました。

『遼史』の作者脱脱はこの事件について次のように評しています:
「嗚呼!天祚帝が頼りとした者がこのような有様では、国が滅びないはずがあるだろうか?」

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