前書き
北宋末期、金国の五国城にある暗く湿った牢獄の中、かつて天下を指揮した皇帝の姿が隅で縮こまっていた。その人物とは、北宋最後の皇帝、宋徽宗である。
かつて詩書画を愛し、優雅さを誇った彼が、こんな屈辱的な運命に落ちるとは誰が予想しただろうか。また、囚われの9年間で彼が14人もの子供をもうけたという事実は、一体何を意味するのか。その背後にはどんな秘話が隠されているのか。そして、生き延びるために彼が何を犠牲にしたのか——それを紐解いていく。
金国の侵攻と北宋の崩壊
金軍の進撃は雷鳴のように北宋の土地を駆け抜けた。東路軍を率いる完顔宗望は刃のように鋭く汴京に迫り、同時に完顔宗翰の軍は太原を激しく攻撃。北宋朝廷は未曾有の危機に直面した。
宋徽宗は恐怖に駆られ、事態を打開する手段がないことを悟り、皇太子趙桓(後の宋欽宗)に譲位を決断。彼は若い皇帝に国を託すことで難局を乗り切れると信じたのか、それとも単に責任を逃れたかったのかは定かではない。
しかし運命は容赦なく、1127年、金軍はついに汴京を破り、皇帝、皇族、大臣らを捕らえ、北へ連行。かつて栄華を誇った都城は廃墟と化し、宋徽宗と欽宗も囚われの身となった。
金国への服従と屈辱の始まり
金国は北宋に巨額の賠償を要求したが、それでも満足せず、1127年には更なる侵攻を行い、賠償金と共に大量の財宝や人間、特に女性を連れ去った。皇族や大臣の妻娘たちは財宝同然に扱われ、金国に送られることとなった。
捕虜となった皇族の女性たちの多くは奴隷や娼婦にされ、耐え難い屈辱を味わった。宋徽宗の21人の皇女のうち3人は道中で命を落とし、多くの女性たちが飢えや寒さ、病気で亡くなった。彼女たちの遺体は荒野に放置され、野生動物に食い荒らされるという非道が繰り返された。
囚われの9年間と生き延びるための代償
囚われの生活は宋徽宗にさらなる屈辱を与えた。金国は彼を井戸の中に幽閉し、「坐井観天」(狭い世界しか見えない様子を揶揄)と嘲笑。さらに「昏徳公」という侮辱的な称号を与えた。金国は彼を奴隷のように扱い、宴会では裸で踊らせるなどの虐待を繰り返した。
それでも宋徽宗は生き延びるために妃や娘を金国に差し出すことを厭わなかった。最愛の娘である福金公主も金の貴族に捧げられ、過酷な運命に耐えかねて26歳で命を落とした。
囚われの9年間、宋徽宗は14人の子供をもうけたとされるが、その中には彼の実子ではない可能性のある子供もいた。それでも彼は気にすることなく、ただ命をつなぐことだけを考えていた。
宋徽宗の最後とその評価
1135年、宋徽宗は五国城で54歳で亡くなった。その遺体は適当に焼却され、溝に投げ捨てられるという悲惨な最期を迎えた。
彼は一生のうちで芸術的才能を発揮し、書道や絵画の分野では輝かしい業績を残した。しかし、政治家としての無能さは北宋を滅亡に導き、自らの名を歴史の「失敗した君主」として刻みつけることとなった。
結び
宋徽宗の人生は、北宋末期の腐敗した統治階級の縮図ともいえる。彼の優雅な芸術の才能と、政治家としての無能さは強烈な対照を成している。後世の人々は彼の芸術に感嘆する一方で、彼が君主として果たすべき責任を放棄したことを非難せずにはいられないだろう。
宋徽宗の名前は北宋の滅亡と共に語られ、その評価は悲劇的でありながらも、多面的な歴史の一幕として後世に残されている。