唐の滅亡後、契丹が台頭
唐が滅亡した後、五代十国の時代に入りました。この時、北方の遊牧民族である契丹が力をつけ、耶律阿保機の指導のもとで遼を建国しました。契丹人は現在の内モンゴル自治区を中心に勢力を拡大し、最盛期には北京、河北省北部、東北三省(遼寧、吉林、黒竜江)、内モンゴル、モンゴル全域、ロシア南部の一部を領土に収めました。
契丹が台頭する中で、中原の混乱を利用し、石敬瑭が「幽雲十六州」を契丹に譲り渡しました。この十六州には現在の北京市、大同市(山西省)などが含まれており、契丹はこの地域を足がかりにさらに南下し、後晋を滅ぼしました。
金国の登場と契丹の滅亡
遼が統治していた時代、契丹人は東北地方に住む女真人を支配していましたが、この支配に対抗して女真人の完顔阿骨打が立ち上がり、金を建国しました。金は遼を滅ぼし、その後宋との同盟を結びながら、最終的に北宋も打ち破りました。
金の最盛期には、現在の北京、天津、河北省、河南省、山東省、遼寧省、吉林省、黒竜江省、内モンゴル自治区の東部、朝鮮半島の一部を含む広大な領土を持っていました。
モンゴル帝国の台頭と金の滅亡
金と南宋が対峙している間に、北方ではモンゴル族が急速に力をつけ、チンギス・ハーンの指導のもとモンゴル帝国が成立しました。モンゴル軍は金を滅ぼし、その後南宋も攻略し、ユーラシア大陸全域に勢力を広げました。しかし、元朝としての統治期間は短く、最終的には朱元璋による明朝の建国によってモンゴル人は北方に追いやられました。
現代の視点での地域
- 遼国(契丹):内モンゴル、モンゴル、東北三省、北京、河北省、ロシア南部。
- 金国(女真):東北三省全域、北京、河北省、河南省、山東省、朝鮮半島の一部。
女真人の子孫は後に再び清朝を建て、満洲族として現在の中国の一部を構成しています。契丹人や女真人の活動領域は、今も彼らの歴史や文化の痕跡を多く残しています。