人々はしばしば疑問に思います。長城は険しい山岳地帯に築かれ、交通が未発達だった過去の時代、常駐する兵士たちはどのように生活していたのでしょうか?
これに関する専門書は見つけられませんでしたので、情報を少しずつ検索し、整理・検証して簡単な紹介を試みます。
秦漢時代と明代では状況が異なりますが、今回は明代を例に、長城を守る兵士たちの生活について探ります。
明代の「九辺」と兵力分配
明代の長城沿線には「九辺」と呼ばれる9つの重要な軍事拠点がありました。それは以下の通りです:
- 遼東鎮
- 蓟州鎮
- 宣府鎮
- 大同鎮
- 三関鎮(山西鎮)
- 延綏鎮
- 寧夏鎮
- 固原鎮(陝西鎮)
- 甘粛鎮
各鎮は約10万人の兵士を抱え、それぞれの防区を守る任務を担っていました。九辺全体では常時約80万人の官軍が配備されていました。
明初(明朝初期)の人口は約6000万人でしたが、この規模の軍隊をどのように養うことができたのでしょうか?
兵糧の供給源
明代の辺軍の兵糧は、主に以下の2つから供給されました:
- 現地の屯田
- 国内他省からの徴収
当時の交通事情を考えると、大部分の兵糧は現地の屯田で賄われました。
三種類の屯田制度
- 軍屯
長城防衛線の駐屯軍が現地で農業を行い、兵糧を自給しました。明初は軍の腐敗がまだ深刻でなかったため、兵士たちの農業への意欲は高く、「九辺」の兵糧は基本的に自給可能でした。朱元璋は「百万人の軍を養っても民の米一粒も費やさない」と豪語したほどです。 - 民屯
人口過密地域(河北・湖南・江西など)から農民を募り、辺境に移住させて耕作を行わせる制度。これは人口圧力の軽減と軍糧供給を目的としていました。 - 商屯
商人を辺境開発に誘致する政策で、耕作面積に応じて塩の専売権(塩引)を与える仕組みです。塩は当時の高利益商品であり、多くの商人を引き付けました。
明初の時点ではこの三本柱が機能していましたが、中期以降、官吏の腐敗が進むと軍屯や商屯はほぼ崩壊し、民屯だけが辛うじて残りました。例えば、甘粛鎮の監軍太監が1万畝の土地を私有化し、西寧の百戸が10万畝を占有するなどの腐敗が横行しました。結果として、長城の兵糧供給は国内他省の輸送に依存するようになり、兵士の生活は悪化、脱走者も増えました。
宣府鎮の兵力分配
『皇明九辺考』によると、宣府鎮が防衛する長城の長さは約1000里(約500km)で、以下のように組織されていました:
- 総兵官
宣府鎮全体を統括します。ただし、任務を決定する際には、鎮守太監や巡撫都御史と協議が必要でした。 - 五名の分守参将
各参将は約200里(約100km)ごとに防衛区域を担当しました。 - 守備官
分守参将の下に配置され、関城、関口、城堡(要塞)などを守備しました。
宣府鎮の官軍は54,999名で、そのうち16,445名が宣府城(現在の張家口)に駐屯していました。ここは総兵官が指揮する機動戦備部隊でした。各段の分守参将はそれぞれ数千から1万人の兵を率い、防衛区域に駐屯させました。
長城の防衛体系
- 第一防衛線:長城外側の墩台(烽火台)
烽火台は敵情を偵察・警報するための施設です。外側の烽火台は孤立しており、最も危険な場所でした。- 守備兵:4~10人
- 装備:火砲、火縄銃、銅鑼、狼糞、旗など
- 特徴:高さ約5丈(約15m)、台階はなく、綱梯を使用
- 第二防衛線:長城本体
長城上には堡寨や空心敵台があり、それぞれ10~50名程度の兵士が駐屯していました。堡寨には炭火で暖を取れる設備や備蓄品がありました。 - 第三防衛線:内側の軍営
軍営には官衙、校場、宿舎、議事庁などがあり、烽火台や城壁から輪番で兵士が派遣されました。
官兵の日常生活
- 食事
主に粟や小麦で作った餅を食べ、時には米で作った炒米(湯で戻して食べる、現代のインスタント食品の先駆け)もありました。物資が十分な場合には料理をして食事を楽しむこともありました。 - 余暇
象棋(中国の将棋)などの娯楽も行われていた形跡があります。 - 困難
明朝中期以降、腐敗や補給不足により、特に烽火台守備は苦役と化し、脱走者が増加しました。
長城の防衛体系は、警報の迅速な伝達と、敵情に応じた柔軟な対応で機能しましたが、明中期以降の腐敗は防衛力の低下を招きました。以上が明代長城の守備体制と官兵の生活の概要です。