皇室の悲惨な結末
崇禎十七年(1644年)三月十八日、李自成率いる大順軍が北京城を包囲しました。彼は事前に崇禎帝に対し、銀300万両を軍費として差し出し、大順軍が西北に退き独立を認めるという条件を提示していました。しかし、崇禎帝はこれに応じることなく沈黙を続けたため、李自成は完全に忍耐を失い、平則門、西直門、徳化門、彰儀門などへの攻撃を命じました。攻城戦は早朝から深夜にかけて行われ、砲声と炎が北京の空を覆い尽くし、市内は未曾有の混乱に陥りました。
崇禎帝は事態がすでに手の施しようがないことを悟り、慌ただしく後事の整理を始めました。彼は成国公朱純臣に太子朱慈烺の補佐を頼もうと考えましたが、朱純臣自身も命の危険にさらされており、そのような余裕はありませんでした。さらに京営総督の李国桢に書簡を送り助けを求めようとしましたが、京軍がすでに潰走し降伏していたことを思い出し、書きかけの書簡を破り捨てました。この時、崇禎帝は完全な孤立と絶望の中にいました。
皇室の子供たちへの避難指示
崇禎帝は砲声が響く中、太子朱慈烺、永王朱慈炤、定王朱慈炯を呼び寄せ、皇子の装束を脱ぎ捨て平民の服を着せました。そして、「今日、お前たちは皇子だが、明日にはただの民になる。この乱世では名前を隠し、老人には翁と呼び、若者には叔父や伯父と呼べ。それを忘れるな」と厳しく命じました。その後、三人の皇子を外戚である周国丈家に送り、匿ってもらうよう手配しました。
その後、崇禎帝は皇后の周氏と別れを告げました。二人は涙ながらに向き合いましたが、言葉を交わすことはありませんでした。周皇后は崇禎帝の前で首を吊り自害し、崇禎帝はその光景を目に焼き付け、赤く腫れた目で立ち去りました。
無情な親族への手
国が滅び、家も崩壊する中で、崇禎帝は幼い昭仁公主を自らの手で刺殺しました。袁貴妃は縊死を試みましたが失敗し、崇禎帝の剣によってさらに傷を負いました。その他の妃たちも彼の手によって命を奪われました。長平公主(崇禎帝の次女)を呼び寄せると、涙ながらに「なぜお前は帝王の家に生まれてきたのか。来世では帝王の家に生まれるな」と語り、剣を振るいました。しかし、手が震えたため誤って彼女の左腕を切断するにとどまりました。長平公主は血の中で倒れましたが、救出され命を長らえることができました。
逃亡の失敗と殉国
皇室の後事を整理した後、崇禎帝は宦官の王承恩とともに内侍を率いて城外に脱出を試みました。しかし、朝陽門や安定門を含むいずれの門も守備隊によって通行を拒否され、やむなく宮殿に引き返しました。その夜、彼は鐘を鳴らして文武の官僚を集めましたが、誰一人として姿を現しませんでした。
翌朝、北京城の城門は相次いで開けられ、大順軍が侵入しました。多くの宮女たちは辱めを受けることを拒み、井戸や池に身を投じました。崇禎帝はこの混乱の中、王承恩とともに煤山(現在の景山)に登り、一対の木で首を吊って殉国しました。
明王朝の終焉
崇禎帝の死は、276年間続いた明王朝の終焉を告げるものでした。李自成は新たな北京の支配者となり、大順王として即位しました。しかし、その統治は長く続かず、清軍の入関と南明政権の抵抗によって、中国の歴史は新たな局面を迎えることになります。
崇禎帝の死は、一つの王朝の終焉であると同時に、末期王朝の混乱と人間の悲劇を浮き彫りにする出来事でした。彼の孤独と苦闘の姿は、現代においても多くの人々の同情を集めています。