蜀漢滅亡後、暴君孫皓の統治下で東呉が17年間も持ちこたえた理由
公元260年、魏の洛陽で甘露の変が発生し、賈充が成済を指示して皇帝を殺害した。
この事件により、司馬昭は曹魏の朝廷をさらに掌握することに成功したものの、世論の支持を失い、簒奪の動きが遅れることとなった。この汚名をすすぎ、政治的突破口を見つけるため、司馬昭は対外的な大勝利を切実に求めていた。
その2年後、姜維が再び北伐を行ったが、侯和(現在の甘粛省臨潭県東南)で鄧艾に敗北。蜀軍の大敗の報を受け、成都では黄皓と諸葛瞻が姜維の罷免を図った。姜維は身を守るために沓中に避けて農耕に従事する。この内部分裂を知った司馬昭は、「まず蜀を討ち、その後東呉を滅ぼして全国を統一する」という戦略を立てた。
魏の蜀攻め:予想外の速さで蜀が滅亡
公元263年8月、司馬昭は18万の魏軍を三路に分けて南下させた。西路軍は鄧艾が率い、姜維のいる沓中を攻撃。中路軍は諸葛緒が指揮し、姜維の後方を切断。東路軍は鍾会が指揮し、漢中に進攻した。蜀には秦嶺という天然の要害があったため、通常の状況であればすぐに滅亡することはなかっただろう。しかし、蜀漢の油断と姜維の防衛計画の問題により、魏軍は順調に漢中を制圧し剣閣に迫った。
蜀漢が魏軍の侵攻を受ける中、劉禅は東呉に救援を求めた。東呉の孫休は三路の援軍を派遣したが、蜀軍が降伏するまでに間に合わず、劉禅は鄧艾に降伏することで蜀漢は滅亡した。
孫皓の登場と東呉の混乱
蜀漢滅亡後、東呉では孫休が264年に崩御し、年長の君主が求められる中、孫皓が即位した。当初は明君と称されたが、次第に暴虐な本性を露わにし、濮陽興や張布を処刑し、孫休の家族も追い詰めて死に追いやった。このような暴政により、朝廷内外では恐怖と混乱が広がった。
西晋の成立と司馬炎の政策
265年に司馬昭が死去し、司馬炎が晋王を継承。翌年、司馬炎は魏を簒奪し西晋を建国した。しかし、内外の課題により、孫皓の東呉に対する討伐はなかなか実現しなかった。一方、孫皓は北伐を繰り返すも失敗続きで、国力をさらに衰退させた。
西晋による東呉討伐
279年、西晋は20万の大軍を六路に分けて東呉を攻めた。この作戦では、指揮官に複数の派閥の人物が選ばれたが、司馬炎は功績を横取りする意図を持っていたともされる。この六路進軍の結果、東呉は国力の差を覆せず、280年に西晋に降伏。ここに三国時代は終焉を迎えた。
東呉が17年間持ちこたえた理由
- 天然の防御線:長江という自然の要害が東呉の防御に寄与。
- 魏・晋の内政問題:司馬氏の政権は内部統制や後方の課題に追われ、即時の南征が難しかった。
- 局地的な指揮力:陸抗などの有能な将軍が局所戦で善戦し、東呉を支えた。
- 司馬炎の慎重な戦略:西晋建国後、まず内政の安定を優先し、時機を見てから南征を決断。
暴君孫皓の治世下であっても、外部の状況や一部の将軍の奮闘により東呉は存続できた。しかし、最終的には内部の腐敗と西晋の準備が整ったことで滅亡を迎えたのである。