高く始まり、低く終わった皇帝——司馬炎

西晋の建国者、孝治を掲げ、兄弟に疑念を抱く

司馬炎、西晋の開国皇帝として知られるが、実際にはその基盤を築いた真の人物ではない。司馬炎が即位すると、祖父の司馬懿、伯父の司馬師、そして父の司馬昭を追尊し、彼らを歴史書『晋書』に皇帝として記載した。このような配置は、司馬氏の歴史を記録する観点から見れば不可解ではない。


孝治の旗印

司馬家は優れた家訓で名高い一族である。曹氏との権力闘争において勝敗はしばしば偶然に左右されるように見えるが、司馬氏の世代では儒家の伝統に忠実で、比較的節度のある生活を送っていた。そのため、彼らの「孝をもって天下を治める」というスローガンは少なからず真剣に受け止められていた。

たとえば、祖父の司馬懿が妻に冷淡な態度を取った際、息子たちは母親に倣い、絶食を通じて父を改心させた。このような家族内の儒教的価値観が、司馬家全体に強く根付いていたのだ。

即位した司馬炎も「孝」を重んじ、泰始年間には儒教の三年喪の伝統を復活させようと試みた。結果として朝廷内で激しい議論が巻き起こり、最終的には全面的な実施は見送られたが、彼自身は粗食と質素な服装で三年間を過ごした。このような姿勢が、彼の治世における重要な特徴の一つである。


柔和な皇帝としての顔

司馬炎は寛大で温和な性格として知られており、部下の批判を受け入れることもあった。たとえば、前将軍の胡威が朝廷の緩みを指摘した際、司馬炎は反論するものの、それを理由に責めることはなかった。また、司隷校尉の劉毅が彼を漢の桓帝や霊帝に例えた際も、むしろ笑顔で受け止めた。このような寛容さは理想的な儒家君主像に近いといえる。

しかし、こうした柔和な態度が必ずしも善政に結びついたわけではない。たとえば、呉を滅ぼした後、各州郡に駐屯する軍隊を撤退させた決断は、経済的な理由に加え、古代の理想像に影響された結果であった。この政策は後の晋王朝に深刻な影響を及ぼし、地方で発生した反乱を制御する能力が失われる原因となった。


兄弟間の葛藤

司馬炎の弟・司馬攸は、彼の同母兄弟でありながら、名目上は伯父の司馬師の養子となっていた。司馬昭は、司馬攸を皇位の後継者と考えており、その能力と人望が司馬炎を凌ぐと評価していた。この兄弟間の関係は表面的には良好に見えたものの、背後には複雑な緊張感が潜んでいた。

即位後、司馬炎は兄弟を厚遇し、司馬攸を「孝の象徴」として封じた。しかし、時が経つにつれて、司馬炎の中に司馬攸への疑念が芽生え、朝廷内でも彼を次期皇帝として推す動きが広がった。これに対し、司馬炎は強い不満を抱き、最終的には司馬攸を封国に追いやった。この過程で司馬攸は体調を崩し、旅の途中で急死してしまう。司馬炎はこれを悔い、医師を処刑したものの、この事件が兄弟間の微妙な権力関係を象徴する出来事として記録されている。


後世への影響

司馬炎の治世は、後に続く晋王朝の歴史に大きな影響を与えた。彼の政策や人間関係の選択は一見穏やかであったが、その裏にはさまざまな矛盾や問題が潜んでいた。兄弟間の争いに見られるような隠された緊張感や、地方の軍事力を削減する決定などが、晋王朝の脆弱性を露呈する結果となったのである。

儒教的な理想を掲げつつも、実際の施策においては迷いや矛盾が見られる司馬炎の姿は、歴史上の興味深い研究対象となっている。彼の治世の評価は複雑であるが、孝治を掲げた彼の統治理念は、少なくともその時代においては一つの理想像として支持されていた。

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