李斯(紀元前284年~紀元前208年)は、中国戦国末期から秦朝にかけて活躍した著名な政治家、文学家、書法家です。字(あざな)は通古、出身は汝南上蔡(現在の河南省上蔡県芦岡郷李斯楼村)です。李斯は秦始皇に仕え、秦朝の中央集権化と統一政策を推進した人物として知られています。その功績は、中国の歴史における二千年以上の封建体制の基盤を築いたことにあります。
基本情報
- 名前:李斯(り し / Li Si)
- 字:通古(つうこ / Tonggu)
- 生没年:紀元前284年~紀元前208年
- 出身地:汝南上蔡(じょなんじょうさい / 現在の河南省上蔡県)
- 職歴:秦国の宰相、丞相
- 業績:
- 車軌、文字、度量衡の統一
- 法治政策の推進
- 《小篆》書体の普及
主要な功績
1. 統一政策の推進
李斯は秦始皇の命を受け、中国全土の車軌(車輪の幅)、文字(小篆)、度量衡(長さ、重さ、容積の基準)を統一しました。この政策は、国家の行政効率を飛躍的に高め、経済的・文化的な統一を可能にしました。
2. 法治国家の実現
法家思想に基づく統治体制を支持し、秦朝の法治主義を確立しました。法の下で全ての人を平等に扱うことを掲げ、封建制に代わる中央集権的な統治体制を形成しました。
3. 書道への貢献
李斯は「小篆」(しょうてん)書体を確立し、文字統一の中心的な役割を果たしました。小篆は中国書道史において重要な書体の一つであり、後の漢字発展の基礎となりました。
晩年と死
秦始皇の死後(紀元前210年)、李斯は宦官の趙高と結託し、皇太子扶蘇に自害を命じる偽詔を発しました。その後、胡亥(秦二世)を擁立しましたが、趙高との権力闘争に敗れ、最終的に紀元前208年に息子と共に咸陽で腰斬(ようざん、体を上下に切り分ける刑)され、一族も滅ぼされました。
評価と影響
功績
- 李斯の政策は、中国統一を安定させる礎を築き、行政の効率化や文化的統一を実現しました。これにより、後世の中国の政治体制と文化発展に多大な影響を与えました。
批判
- 法家思想に基づく過度な中央集権化は、人々に過酷な労役と抑圧を強いたため、秦朝滅亡の一因となったとも言われます。
- 私利のために扶蘇を死に追いやり、胡亥を擁立した行為は、倫理的な非難を浴びています。
李斯の功罪は相半ばするものの、彼の改革と制度構築の影響は非常に大きく、中国史における重要人物として評価されています。