乾隆帝は歴史上最も長寿の皇帝であり、在位期間が最も長い皇帝でもあります。しかし、その父である雍正帝には10人の息子がいました。そのうち6人は幼少期に亡くなり、存命だったのは4人だけでした。
乾隆帝、つまり愛新覚羅・弘暦は第四子です。雍正帝が即位する前に、長男と次男はすでに亡くなっていたため、弘暦の上には三男の愛新覚羅・弘時だけが残っていました。それにもかかわらず、雍正帝は弘時を飛ばして弘暦を皇太子に選んだのです。その理由を探ってみましょう。
1. 祖父である康熙帝からの深い愛情
晩年の康熙帝は四男である雍正帝の円明園を訪れ、初めて12歳の孫である弘暦に会いました。康熙帝は彼を宮中に連れ帰り、直接教育を施し、馬術や弓術を教えるほど可愛がりました。このことから、康熙帝が弘暦を非常に気に入っていたことが分かります。
雍正帝が即位した後、皇太子を秘密裏に決める制度を採用しましたが、すでに弘暦の名を伝位の詔書に記していたのです。祖父と父の両代から認められたことからも、幼少期の弘暦が非凡な才能を持っていたことが伺えます。
2. 弘時が父からの寵愛を失った
弘時は雍正帝にとって実質的な長子でした。長幼の順で選ぶなら、兄である弘時が皇太子に最もふさわしいはずです。しかし、彼は雍正帝に良い印象を与えることができませんでした。
幼少期には雍正帝から深い愛情を受け、名高い儒学者から教育を受けました。しかし、弘時は性格が放蕩であり、何度諭されても改めようとしなかったため、雍正帝は次第に失望しました。弘暦や弘昼といった他の息子たちが生まれるにつれ、雍正帝の関心は弘時から離れていきました。
さらに、弘時は時勢を読む力が欠けており、父である雍正帝の政敵であった八叔・胤禩の側に立つという致命的な判断をしました。「九子奪嫡」の争いで父が苦労の末に皇位を得たにもかかわらず、息子がその対立陣営に加担したことで、父子関係はますます悪化しました。
最終的に、雍正帝は弘時を胤禩の養子とし、彼を皇位継承から完全に排除しました。
結論
こうして弘暦は「天の時、地の利、人の和」を兼ね備えた皇太子となり、順調に即位しました。乾隆帝は即位後、清朝の全盛期を築き上げ、明君としての風格を示しましたが、晩年には暗愚となり鎖国政策を推進し、清朝を衰退へと導きました。
この点について、皆さんはどのようにお考えでしょうか?