最近放送されたドラマ『清明上河図の謎』では、北宋の都・東京汴梁(現在の開封)の繁栄した姿が描かれました。特に、汴梁城では夜間経済が盛んで、人々が自由に夜遊びを楽しむ様子が印象的です。
しかし、「中国古代は厳格な宵禁制度があったのでは?」という疑問が湧くかもしれません。たとえば、唐代の長安では厳しい夜禁制度が実施され、夜間の外出が禁止されていました。金吾衛という官職が巡回警備を行い、夜間に外を歩いている者は怪しい者として取り調べを受け、場合によっては罰せられることもありました。このような制度は、ドラマ『唐朝怪事件録』にも描かれています。
では、なぜ宋代になると庶民が夜に自由に遊べるようになったのでしょうか?その背景には以下のような要因がありました。
1. 中国古代の宵禁制度の成立とその理由
中国古代では「昼は陽、夜は陰」とされ、陽が活動し陰が静まるという自然の道理に従い、人々も昼に働き夜に休む生活スタイルを形成しました。農業社会では「日出而作、日入而息(朝に働き、日没後に休む)」が基本であり、夜間の外出は非常に不便でした。公共の照明設備がなく、月明かりや星明かりを頼りにするしかなかったため、夜間の活動は通常避けられていました。
また、夜間は犯罪が発生しやすいため、防犯上の理由から宵禁制度が設けられました。城や要塞などの重要地域で夜間の移動を禁止し、夕暮れ時に城門を閉じることが習慣化されました。このように、宵禁制度は古代の社会秩序を維持し、治安を安定させる役割を果たしていたのです。
唐代では宵禁制度がさらに成熟し、長安城では「坊市制度」が整備されました。城内は坊(居住区)と市(商業区)に分けられ、それぞれが城壁や門で囲まれていました。日中は商業活動が行われましたが、夕暮れ時になると「暮鼓」が鳴り、城門や坊の門が閉ざされ、夜間の外出が禁止されました。
2. 宋代における夜経済の発展
宋代に入ると、社会の変化とともに宵禁制度が緩和され、夜間経済が発展しました。この変化には以下の要因が影響しています。
① 商業思想の進展
宋代では「重農抑商」という従来の思想が変わり、商業の発展を奨励する考えが広まりました。例えば、北宋の政治家である欧陽脩や王安石は、商業活動の利益を認め、商人と政府が利を争うべきではないと主張しました。
② 市民階層と市民文化の台頭
宋代には都市の拡大とともに、手工業者、商人、下層知識人などからなる新たな市民階層が形成されました。彼らは物質的・精神的な欲求が多様化し、都市には商店、飲食店、娯楽施設などが次々と現れました。これにより、街は昼夜を問わず活気に満ち、住民が自由に消費や遊興を楽しめる環境が整いました。
③ 伝統的な都市管理モデルの変革
宋代には封閉的な「坊市制度」に代わり、「厢坊制度」が導入されました。これにより、居住区と商業区が混在する形態が生まれ、都市が開放的な空間に変わりました。また、商業活動の多様化に対応するため、夜市が許可されるようになりました。北宋の都・東京汴梁はこの新しい都市形態の代表例であり、ドラマ『清明上河図の謎』でもその姿が描かれています。
3. 宵禁制度の緩和と夜間管理の進化
宋代では、宵禁制度が依然として存在しましたが、夜間経済の発展を促進するために緩和されました。例えば、元宵節や冬至の期間中は宵禁が解かれ、都市全体が賑わいを見せました。また、地方政府は夜市の治安を維持するための新たな管理機構を設置しました。
宋代の文学作品にもその活気が反映されています。たとえば、范成大の『灯市行』には「夜夜長如正月半(夜は毎晩、元宵節のように賑やかだ)」といった描写があります。また、宋代の繁栄を象徴する樊楼について、詩人劉子翬は「夜深灯火上樊楼(深夜に灯火が樊楼を照らす)」と詠み、夜間の繁栄ぶりを称えました。
結論
宋代の夜間経済は商品経済の発展による産物であり、都市の経済と文化の発展に大きく寄与しました。しかし、一方で夜市の過度な発展が享楽主義や奢侈の風潮を生み、国の衰退を招いた側面もあります。
その後、宵禁制度は清代や民国初期にも存続しましたが、社会の変化に伴い、民国中期にようやく廃止されました。宋代の夜間経済と都市管理モデルは、中国の歴史における重要な革新であり、後世の都市形態に多大な影響を与えました。