13世紀初頭、チンギス・ハーンの西征により、耶律大石が建国した西遼は滅亡し、契丹人の中亜での影響力も衰退しました。しかし、西遼の崩壊と同時に、契丹人の将軍八剌黒が一族を率いてイラン東南部に移住し、現地住民と融合することでクルマン地方に起兒漫王朝を築きました。
起兒漫王朝の成立後、モンゴル帝国の勢力がイラン高原に拡大すると、契丹人たちはモンゴル帝国への臣従を決め、モンゴル貴族との婚姻を通じて、最終的にはイルハン朝の属国となりました。
西遼滅亡と八剌黒の行動
1210年、かつて中央アジアで覇権を握った西遼は衰退の一途を辿り、タラス川の戦いで花剌子模(ホラズム)軍に敗北しました。この戦いで多くの契丹兵士が捕虜となり、八剌黒もその一人でした。八剌黒は西遼貴族出身であり、かつて西遼の名将塔陽古の下で仕えた経験がありました。
捕虜となった八剌黒は、花剌子模のスルタン、摩訶末に重用され、彼の息子ジャラールッディーンに仕え、イスファハーンの総督に任命されました。しかし、1218年にチンギス・ハーンが花剌子模を攻撃すると、西遼は正式に滅亡しました。この混乱の中、八剌黒はクルマン地方に進出し、当地を支配下に置くことで、王朝設立の基盤を築きました。
起兒漫王朝の成立
1224年、ジャラールッディーンがインドから帰還すると、八剌黒は彼に忠誠を誓い、財宝を贈り、自らの娘を嫁がせました。これにより八剌黒はクルマンの総督に任命され、事実上の起兒漫王朝が成立しました。その後、八剌黒は宗教改宗を行い、バグダードのカリフを訪問して「スルタン」の称号を得ました。
モンゴル帝国との連携と王朝の存続
八剌黒は最終的にモンゴル帝国との関係を強化し、オゴデイ・ハーンへの臣従を表明しました。彼の死後、王位は一族内で争奪戦が繰り広げられましたが、最終的にはモンゴルの支援を得た忽都不丁が王位を掌握しました。
忽都不丁の時代には、モンゴル帝国のフレグによる西征が行われ、イルハン朝が成立しました。起兒漫王朝はイルハン朝の属国として存続し、王朝の繁栄期を迎えました。しかし、内部の権力闘争が激化し、1295年に帕迪莎(パディシャ)が処刑されるなど、王朝は徐々に弱体化しました。
起兒漫王朝の滅亡
1304年、当時の王ムザッファルが酒に溺れて死去し、続く混乱の中で王朝は弱体化しました。1306年、イルハン朝に貢納金を支払えなかったことを理由に起兒漫王朝は滅亡し、80年以上続いた契丹人の支配は終焉を迎えました。クルマン地方に住んでいた契丹人たちも、現地の民族に同化して姿を消しました。