「敗者は反逆者、勝者は革命家!」と言われるように、全斗煥が大統領になるまでの道筋は緊迫感に満ちたものでした。彼の台頭は、朴正熙の暗殺から始まり、「ソウルの春」を抑え込むことで達成されました。その経緯を以下に整理します。


1. 朴正熙の死

1970年代、韓国には朴正熙の成功に触発された野心家たちが潜んでいました。その中でも、中央情報部部長の金載圭は最も野心的な人物でした。しかし、朴正熙の側近として名を連ねていた4人(陸軍参謀総長の鄭昇和、大統領秘書室長の金桂元、大統領警護室長の車智澈、金載圭)の間には対立があり、特に金載圭と車智澈の間の不和が目立っていました。

1979年10月26日、朴正熙は車智澈と金載圭を招いた宴席で、金載圭を叱責。激怒した金載圭はその場で銃を手にし、車智澈と朴正熙を射殺しました。しかし、金載圭はこの暗殺後、軍の支持を得ることができず、最終的に鄭昇和らに逮捕されました。


2. 全斗煥の登場

朴正熙暗殺後、合同捜査本部の責任者に任命された全斗煥は、この機会を利用して自らの権力基盤を築きました。彼は軍内で「一心会」という勢力を形成し、同僚の盧泰愚らとともに次第に軍の主導権を握っていきます。

鄭昇和が全斗煥の野心を警戒して動きを封じようとしたものの、全斗煥はそれを先回りし、12月12日に「軍部クーデター」を起こして軍権を掌握しました。このクーデターでは、全斗煥とその仲間が軍本部を制圧し、実質的に韓国の軍事指導権を手中に収めました。


3. 「ソウルの春」の鎮圧と大統領への道

朴正熙の死後、民主化を求める動きが高まり、これを「ソウルの春」と呼びます。しかし、全斗煥はこの動きを軍事力で抑え込みました。1980年5月、学生や市民によるデモが全国で起こる中、全斗煥は戒厳令を拡大し、民主化指導者を次々に逮捕。さらに、光州市での民主化運動も武力で鎮圧しました(光州事件)。

これにより全斗煥は反対勢力を排除し、軍事力に支えられた支配体制を構築。1980年8月、崔圭夏大統領を辞任に追い込み、同年9月1日に韓国第11代大統領に就任しました。


まとめ

全斗煥の大統領への道は、軍事力と策略を駆使して敵対者を排除し、国家権力を掌握するプロセスそのものでした。彼の台頭は、韓国の歴史における軍事政権時代の象徴的な出来事と言えるでしょう。

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