明朝(1368年~1644年)は、朱元璋の建国から崇禎帝の自害まで、16人の皇帝が276年にわたり統治した時代です。この歴史には、領土拡大の栄光と衰退の悲哀が交錯しています。以下は明朝の簡潔な興亡の歩みです。
建国と基盤の確立(1368年~1398年)
- 1368年:朱元璋が元朝を打倒し、南京で即位。明朝を建国し、一連の改革を通じて中央集権体制を確立し、国家の繁栄を築いた。
- 1370年~1390年:北方の蒙古軍を撃退し、万里の長城や運河の修復を進める一方、「空印案」や「胡惟庸案」などで多くの冤罪事件が発生。
- 1393年:「藍玉案」により功臣が次々と処刑され、靖難の変への伏線となる。
- 1398年:朱元璋が崩御し、孫の朱允炆が即位。藩王の権力削減を図ったが、燕王朱棣の反発を招く。
靖難の変と永楽の盛世(1399年~1424年)
- 1399年~1402年:朱棣が靖難の変を起こし、南京を攻略して即位。永楽帝として明朝の全盛期を築く。
- 1405年~1433年:永楽帝の命で鄭和が七度にわたる航海を実施し、明朝の国力を誇示。
- 1410年~1420年:北伐を繰り返し、北京への遷都と紫禁城の完成を実現。「永楽の盛世」を開花させる。
- 1424年:朱棣が遠征中に病死し、太子朱高熾(明仁宗)が即位。
仁宣の治と中期の安定(1425年~1435年)
- 1425年~1435年:明仁宗と明宣宗の治世では、内政重視と経済復興を進め、「仁宣の治」と呼ばれる安定期が実現。
- 1433年:鄭和が逝去し、明朝は対外海洋活動を縮小、鎖国政策へと転じる。
土木堡の変と明朝の中衰(1435年~1566年)
- 1449年:英宗朱祁鎮が「土木堡の変」で瓦剌に捕えられ、政治的混乱が生じる。以降、宦官と権臣の影響力が増大。
- 1464年~1487年:明憲宗の治世初期は安定していたが、後期は道術に溺れ、万貴妃を寵愛し政治が腐敗。
- 1487年~1505年:明孝宗の「弘治の中興」により社会経済が発展。
- 1506年~1521年:正徳帝の治世では宦官の専横と皇帝の享楽が明朝をさらに衰退させた。
- 1521年~1566年:嘉靖帝が道教に傾倒する中、戚継光が沿岸防衛で倭寇を撃退し、功績を残す。
万暦の中興と後期の危機(1567年~1620年)
- 1567年~1582年:張居正の改革により、財政と統治が強化され、「万暦の中興」と称される繁栄を迎える。
- 1616年:女真族のヌルハチが後金を建国し、明朝への脅威が拡大。
- 1618年:後金が遼東を制圧、明軍は守勢に追い込まれる。
崇禎年間と明朝滅亡(1620年~1644年)
- 1627年~1644年:崇禎帝が宦官勢力を排除し改革を試みるも、農民反乱と外敵の侵攻が重なり、内外から明朝を揺るがす。
- 1644年:李自成が北京を占領し、崇禎帝は自害。清朝の台頭により明朝は滅亡する。
まとめ
明朝の隆盛は中央集権と軍事力によるものだったが、宦官の専横や財政難、内外の混乱が衰退の原因となった。滅亡後も、明朝の文化や制度は後世に多大な影響を与え、中国史の中でも特に重要な王朝といえるでしょう。