元憲宗ボルジギン・モンケ(1209年1月10日〜1259年8月11日)は、モンゴル帝国のカアンであり、成吉思汗の孫で、第四代カアンとして知られています。父は成吉思汗の末子トゥルイ、母はソルコクタニ(唆鲁禾帖尼)で、元世祖フビライは弟にあたります。モンケは幼少期から軍事訓練を受け、成吉思汗の命により遠征にも従軍しました。
1251年、クリルタイにてカアンに推戴され、帝位に就きました。モンケは即位後、中央集権化を進め、モンゴル帝国の行政・財政制度の整備に取り組みました。また、国家の宗教的な寛容政策を支持し、仏教や道教、キリスト教、イスラム教などさまざまな宗教を尊重しました。
モンケは、帝国の領土拡大に積極的に取り組み、西アジア・中東への遠征を開始しました。1253年、弟フビライを指揮官として南宋遠征を命じ、雲南や大理を支配下に置きました。また、1256年には弟フラグに命じてイラン方面へ遠征軍を送り、イスラム世界におけるアッバース朝の拠点バグダードを陥落させ、モンゴル帝国の版図をさらに拡大しました。
しかし、1259年の南宋への遠征中に重病を患い、四川省にて崩御しました。モンケの死はモンゴル帝国内の勢力バランスに大きな影響を及ぼし、その後、弟クビライとアリクブケの間で帝位を巡る内戦(トルイ家の内戦)が勃発しました。モンケは「元憲宗」の廟号を与えられ、モンゴル帝国の一時代を築いた皇帝として記憶されています。