宦官は封建時代の王朝において特異で哀れな存在でした。彼らの多くは貧しい家庭出身で、子供を去勢して宮廷に送り出す以外に道がなかったのです。このように去勢された子供たちは、宮中で正常な待遇を受けることもなく、貴族の世話をする一方で、宦官同士の権力争いに巻き込まれることもありました。
中国最後の宦官
孫耀庭(そん ようてい)は中国史上最後の宦官で、94歳まで生き、1996年に世を去りました。その生涯は、清王朝最後の一時代を直接見届けた「歴史の生き証人」と言えます。
孫耀庭、本名は留金。彼の家族は6人家族で、元々は私塾の教師が所有する農地で働き、生活はそれほど苦しくありませんでした。しかし、戦乱が勃発し、私塾の教師が逃げたことで孫耀庭は失学し、両親も乞食の身に転落しました。生計が立たなくなり、家族は息子を宦官にする道を選ばざるを得ませんでした。
1916年、14歳の孫耀庭は宮中に入ります。当時、溥儀(ふぎ)は退位を表明しており、紫禁城での生活は清王朝の元貴族たちへの配慮に過ぎませんでした。宮中での生活は厳しく、盗みや新参の宦官への搾取が横行していました。読書経験があったため、孫耀庭は比較的機転が利く方であり、先輩の宦官も彼を育てるつもりでいました。入宮して2年目、端康皇貴妃が孫耀庭の勤勉さに目を留め、そばで仕えさせることになりました。
宦官回顧録
晩年に孫耀庭は自伝を残し、宮廷での経験を記しました。婉容(えんよう)皇后に仕えていた頃は、孫耀庭の宦官生活の中でも最も誇りを感じた日々でしたが、その仕事には厳格な規則が伴いました。皇后の手を洗う際には、宦官が跪いて丁度よい角度で水盆を差し出し、体の動きを最小限に留めました。皇后が煙草を吸う際も、宦官たちは跪いて火を点けるなど細心の注意が必要でした。
また、皇后の入浴や着替えの際も、身動き一つしない皇后に対し、宦官や宮女たちが全ての世話をしました。浴槽の温度は常に適温を保つよう管理し、入浴が終わるまで跪いたままでした。
宮廷を去った後
軍閥の馮玉祥(ふう ぎょくしょう)による北京政変の後、溥儀と婉容も宮廷から追放され、孫耀庭も宦官としての生涯を終えました。故郷の天津に戻ったものの、土地もなく生活は困窮し、やむを得ず北京に戻り、元宦官たちが住む興隆寺に身を寄せました。