康熙帝が急逝したとき、朝廷の多くの文武官たちは十四皇子が次の皇帝になると思っていました。しかし、予想に反して四皇子が先に遺詔を示し、康熙帝がすでに自分に皇位を譲る旨を記していると言い、正式に即位しました。

ところが、この遺詔の存在から、多くの人が四皇子が康熙帝の遺詔を改ざんし、本来「十四皇子に伝位」するはずのものを、「伝位於四皇子」に変えたのではないかと疑念を抱きました。この話を題材にしたドラマも多く存在します。

では、真相はどうなのでしょうか?博物館に保管されている康熙帝の遺詔を確認してみましょう。
あるネットユーザーがこの件についていくつかのポイントを挙げており、なるほどと思えるので、ここでご紹介します。皆さんもその意見が妥当かどうか考えてみてください。
- 遺詔は康熙帝の自筆ではなく、雍正帝が即位後に取り出したもので、臣下に書かせたものです。したがって、誰に伝位するかは自由に書くことができました。
- 康熙帝は突然亡くなりました。康熙帝はもともと健康で、幼い頃には天然痘にかかったものの回復しています。医者の記録によると、当時康熙帝は軽い風邪を引き、回復したかと思いきや急逝しました。その後、隆科多が四皇子への伝位を発表しました。
- 四皇子の生母である徳妃は生涯四皇子を許さず、自分が康熙帝に対して罪を感じているとさえ述べました。偏愛があったとしても、四皇子は彼女の実の息子ですから、他人の息子が皇帝になるよりは良いはずです。徳妃が太后になることを拒み続けた理由として、四皇子がもともと末の息子に属していた皇位を奪い、さらに康熙帝を死に追いやったことが原因だとする説もあります。 さらに、康熙帝は高齢であるため太子を親征に派遣することはないはずという意見もあります。しかし、康熙帝は健康そのもので、十四皇子の帰還を待つだけの時間があったにもかかわらず、彼の帰還を待つことができなかったのです。