呂蒙は水軍を率いて商船に偽装し、烽火台の近くで風を避けるふりをして停泊した。夜になると、烽火台を守る兵士が眠りにつく隙を狙い、関羽の烽火台を制圧し、そのまま夜陰に乗じて荊州へと進軍した。当時、関羽は荊州の2万の兵を樊城攻略に向けていたため、城の守備は手薄だった。呂蒙は捕虜の兵士を利用して城門を開けさせ、その瞬間に伏兵が城内に突入し、荊州を占拠した。

曹操(鲍国安)は荊州が東呉に奪われたことを知り、徐晃に命じて関羽を攻撃させた。関羽は徐晃との戦いで、以前の矢傷が再び悪化した。さらに曹仁も城から出て関羽を挟撃し、関羽は四面楚歌の状況に追い込まれる。しかも、荊州の九郡がすべて東呉に占領されたことを知り、関羽は大きな悲しみに襲われた。

関羽は東呉の包囲網に阻まれ、仕方なく麦城へと避難し、川中からの援軍を待つことにしたが、蜀軍はすぐには到着しなかった。一方で、東呉軍は麦城を完全に包囲した。関羽は救援を求めて書簡を送り、廖化が突破して孟達に助けを求めた。しかし、孟達は関羽が劉備(孫彦軍)に対して関将軍を後継者とすることに反対したことを持ち出し、これが関羽を激怒させた。

その後、諸葛瑾が降伏を促すために関羽を訪れたが、関羽はこれを拒絶し、彼を追い返した。孫権(呉曉東)は麦城を攻撃し、関羽を北門から逃げさせるよう追い詰め、通往西川への道に伏兵を設置した。関羽の部下の一人は麦城に残って東呉軍を引きつけることを提案し、周倉がこれに応じて麦城の守備を任された。関羽は息子の関平とともに城を離れるが、途中で東呉の伏兵に捕らえられてしまう。

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