建安7年、袁紹(李慶祥)は吐血して死去し、その子である袁譚、袁熙、袁尚が後継を巡って争いを始める。辛毗は曹操に降伏し、袁譚は二将を伴って曹操(鮑国安)のもとに身を寄せるが、曹操に冷遇される。曹操は袁尚を討つために出兵し、奇襲によって大勝を収め、袁尚軍は大敗、袁尚は中山に逃亡する。曹操は冀州を攻撃し、審配は降伏した辛毗の家族80余人を皆殺しにする。審配の甥、審容は事の成り行きを見届けて城門を開き、自害する。曹軍が城内に入ると、審配を捕えたが、彼は降伏を拒み斬首される。混乱の中、曹操の長男である曹丕は袁紹の邸宅に私的に入り、曹操に叱責される。曹丕は袁紹の妻である劉氏と袁熙の妻である甄氏を曹操に引き合わせ、劉氏は甄氏を曹丕に捧げ、曹操は曹丕に彼女を娶るよう命じる。

曹操は袁紹に対して盛大な祭祀を行い、袁紹の元で参謀を務めていた陳琳に、かつて袁紹のために書かせた「討曹檄文」を読み上げさせる。曹操の謀臣である郭嘉は戦中に重病を患い、亡くなる。袁熙と袁尚は遼東へ逃れるが、曹操が渤海に至ったところで、遼東太守の公孫康から袁氏兄弟の首が送られてくる。これは郭嘉が曹操に忠告していた通りであった。曹操は大海を眺めながら感慨に浸る。

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