光緒34年(1908年)の深秋、紫禁城で突如大きな変化が起きた。わずか37歳で光緒帝が瀛台で亡くなり、衝撃的な遺言を残した。末代皇帝溥儀は自伝『わが半生』の中で、この長らく封印されていた歴史の謎を明らかにした。この悲劇は、慈禧太后と光緒帝の権力闘争に端を発しており、袁世凱の裏切りや載灃の苦しい選択も絡んでいる。光緒帝の願いが実現されたかどうかは、後世の議論の的となった。
慈禧太后と光緒帝の権力争い
光緒帝は4歳で即位し、慈禧太后が垂簾聴政を行い、実権を握った。光緒帝が成長するにつれ、自分の皇権が奪われていることに気づき始めた。1898年、光緒帝は戊戌の変法を推進し、腐敗した清朝の体制を改革しようとしたが、改革はわずか103日間で慈禧太后によって鎮圧され、光緒帝は瀛台に幽閉された。
この権力闘争の中で、袁世凱は重要な役割を果たした。かつて光緒帝の信頼を得ていた彼は、戊戌の変法の際に光緒帝を裏切り、慈禧太后に寝返った。この裏切りは光緒帝を深く悲しませ、兄弟の間に緊張を生んだ。
光緒帝の死
1908年、光緒帝の病状が悪化したというニュースが広まり、紫禁城は緊迫した雰囲気に包まれた。慈禧太后は、光緒帝が自分の死後に復讐することを恐れ、彼が自分の死を目にすることを許さないと決意した。光緒帝の病状については、慈禧太后が毒を盛ったという説と、袁世凱の薬膏が原因であるという二つの説が宮中でささやかれた。最終的に、光緒帝は瀛台で亡くなり、慈禧太后もその後すぐに息を引き取った。
光緒帝の遺言
光緒帝は死の間際、弟の載灃に遺言を託した。遺言には、袁世凱の爵位を廃し、慈禧太后の腹心である太監李蓮英を処刑し、戊戌の変法を復活させることが記されていた。載灃は兄の遺志を尊重しながらも、朝廷の安定を考慮し、遺言を一時的に封印し、適切な時期を待つことにした。
末代皇帝の即位
光緒帝と慈禧太后が相次いで亡くなった後、3歳の溥儀が皇帝に即位し、清朝は終末期に入った。載灃は摂政王として朝政を掌握したが、光緒帝の遺言は公表されることはなかった。1911年、武昌起義が勃発し、革命の波が全国を席巻した。袁世凱は状況を掌握し、溥儀は1912年に退位を宣言し、清朝は正式に滅亡した。