同治帝は梅毒で亡くなったのか、それとも天然痘で亡くなったのか?
5歳のとき、病弱な父である咸豊帝がこの世を去り、同治帝は幼いながらも皇帝の座に就きました。5歳から19歳まで、子供から大人に成長する過程で、同治帝は一度も完全に朝政を掌握することはできませんでした。
同治帝の公務、生活、さらには夫婦生活までもが母親である西太后に厳しく管理されていました。このような帝王生活は、若い男性にとっては非常に苦痛なものでした。
1875年、19歳の若さで同治帝はこの世を去り、遥かなる天国へと旅立ちました。
同治帝の死因については、さまざまな説が伝えられており、広く知られているのは2つの説です。1つは天然痘、もう1つは梅毒です。
『四朝佚聞』には「穆宗(同治帝)が崩御した際、その死因は一定せず、ある者は天然痘とし、ある者は内部の毒としたが、医薬では治せなかった……」と記されています。
同治帝は一体何の病で亡くなったのでしょうか?天然痘、それとも梅毒?
- 投薬状況を見ると、同治帝は天然痘で亡くなったようです。
古代の人々にとって、天然痘は致死率が非常に高い不治の病でした。
清の聡明で偉大な康熙帝も幼少期に天然痘に罹患し、命を取り留めましたが、顔には凹凸のある痘痕が残りました。
顔に痘痕が残ったとしても、それは康熙帝が清朝で最も偉大な皇帝となることを妨げるものではありませんでした。
同治帝の死に関して、中国第一歴史档案館は重要な資料『同治進薬簿』を公開しました。この資料は『清代档案史料丛編』の第七巻に収録されています。
その資料によると、同治帝は病を患ってから亡くなるまでの間、主に天然痘治療のための薬を用いていたことが示されています。また脈象も天然痘を示唆するものでした。
このいわゆる半ば公式とも言える権威ある資料からは、確かに同治帝が天然痘で亡くなったことが窺えます。
さらに、翁同龢の日記にもいくつかの記録が残されています。
翁同龢とは誰でしょうか?彼は同治帝の師であり、皇帝の教師でもありました。
翁同龢は日記を書く習慣があり、1874年12月10日にはこう記しています。「上、起坐し、顔色は盛んで、顔面はみな膨れ、声には力があり、腕を挙げて示すとき、その粒々は極めて十分であった」。
この記述からは、同治帝が天然痘による非常に顕著な症状を示していたことがうかがえます。
咸豊帝は31歳まで生き、息子である同治帝はわずか19歳で亡くなりました。この親子は清朝の皇帝の中でも最も不運な部類に入ります。
咸豊帝は酒と女、アヘンを好み、それが自分の命を縮めました。一方、同治帝は西太后の管理下で悩みを抱え、やむを得ず快楽を求めて外に出かけたことが最終的に命を縮める原因となりました。
悲しいことに、皇帝としての高位に就いていたとしても、決して幸せとは限らず、むしろ長生きできないことも多いのです。