伊籍は劉備(孫彦軍)に関羽からの救援要請の書簡を差し出し、関羽の窮状を説明する。その時、廖化が駆けつけ、孟達が救援を拒否したことを報告する。その後、兵士が関羽とその子関平が孫権(呉曉東)に殺害されたという知らせをもたらした。張昭は孫権に進言し、関羽の首を曹操(鲍国安)に送り、劉備に曹操が関羽を殺したと誤解させることで、東呉を安全に保つ策を提案する。
曹操は関羽の首を見て恐怖し、彼を荊王に封じ、王侯の礼で葬ることを決めた。諸葛亮(唐国強)は、呉と魏が互いに関羽殺害の責任を押し付け合っていることを見抜き、劉備に対して、関羽の死を理由に報復戦を起こすべきではないと進言し、まずは関羽の葬儀を行うべきだと説いた。
曹操は関羽を葬った後、不安に苛まれ、洛陽の行宮では怪異が相次いだとの噂が広まる。そこで曹操は新しい宮殿を建てることを決意する。しかし、大黒柱となる木を伐ろうとすると、どの工匠も斧や鋸を使っても切れず、曹操が自ら剣で木を斬ると、木から赤い液体が噴き出して彼の体にかかり、曹操は驚愕してその場を離れた。
帰還後、曹操は激しい頭痛に苦しみ、華佗を呼んで治療を求める。華佗は頭蓋を開けなければ病根を取り除けないと診断したが、曹操はこれを聞いて、華佗がかつて関羽の毒を刮骨で取り除いた話を思い出し、華佗が関羽の復讐を図っているのではないかと疑う。そこで曹操は華佗に厳しい拷問を加え、彼を処刑させた。華佗は死の間際、看守に医書を託した。
曹操は死の間際、家臣たちに曹植を後継者として支えるよう命じ、また、自分の墓の場所を後世に知られぬように指示した。