独孤信(赫連昌)は、西魏の八大柱国の一人として知られる名将である。彼には7人の娘と7人の息子がいたが、そのうちの3人の娘が皇后となり、「史上最強の岳父(義父)」とも呼ばれている。この3人の皇后は、それぞれ北周明敬皇后、唐元貞皇后、隋文献皇后であり、独孤家の名を歴史に刻んだ。3姉妹は動乱の時代に生まれ、異なる王朝の皇帝に嫁ぎ、それぞれの夫の帝位を支えた。
長女:北周明敬皇后
独孤信の長女は北周の明帝宇文毓に嫁いだ。当時、北周は権臣宇文護が実権を握っており、宇文毓は宇文護の支援を受けて皇帝に即位した。独孤氏は夫の即位によって皇后となったが、皇后としての地位を手に入れて間もなく、難産のため若くしてこの世を去った。
四女:唐元貞皇后
唐元貞皇后は唐の開祖である李淵の母である。彼女は関隴貴族である唐国公李昞に嫁いだ。その息子である李淵が唐を建国して皇帝に即位した後、彼女は元貞皇后として追封された。
七女:隋文献皇后(独孤伽羅)
隋文献皇后である独孤伽羅は、14歳のときに弘農楊氏の嫡長子である楊堅に嫁いだ。楊堅の母は「五姓七家」の名門、清河崔氏の出身である。独孤伽羅と楊堅は5男5女をもうけ、その中には廃太子楊勇や隋炀帝楊広も含まれる。
楊堅は娘の楊麗華を北周の皇帝に嫁がせ、その後、楊麗華の息子である宇文闡を廃して隋を創建した。589年には陳朝を滅ぼし、中国の統一を成し遂げ、東漢以来の分裂時代に終止符を打った。
楊堅は独孤伽羅に対して「側室を持たず、白髪になるまで共に過ごす」と誓いを立てた。夫妻は政治闘争や家族の衰退を共に乗り越え、独孤伽羅の支えのもと、楊堅は隋を建国し、彼女は皇后として封じられた。独孤皇后は一夫一妻制を強く支持し、楊堅に対しても絶対的な忠誠を求めた。また、自身だけでなく臣下や皇子の妾を嫌い、側室が生んだ子に対しても厳しい態度を示し、大臣たちを叱責したり降格させたりすることもあった。
独孤皇后と隋の皇子たち
独孤皇后は5人の息子の中で楊勇と楊広を特に気に入っていたが、最終的には次男の楊広をより重用した。楊勇は側室を寵愛し、贅沢な生活を送ることから独孤皇后の不興を買った。一方で楊広は節約家を装い、正妻蕭氏を大切にするなど、皇后の意向に従う姿勢を見せた。この結果、楊広が皇帝に即位したが、彼は好大喜功で、無謀な戦争を繰り返した末、隋は彼の従兄弟である唐の李淵によって滅ぼされた。
独孤氏の天下
時代を巡る中で、天下は最終的に独孤氏の手に戻った。独孤信は娘たちを通じて自らの名を歴史に刻み、娘たちもまた父の名声を高めた。彼の一族は「独孤天下」と称されるにふさわしい栄光を手にしたのである。