曹雪芹の『紅楼夢』は、中国古典文学の中でも傑作として知られ、中国国内で長年愛され続けているばかりか、多くの外国人読者もその魅力に引き込まれています。

この作品は、賈宝玉(ジャ・バオユー)と林黛玉(リン・ダイユー)の悲恋を描いただけではなく、一大名門の栄枯盛衰を通じて、封建王朝時代の社会と人間模様を浮き彫りにしています。

では、なぜ栄国府(贾府)は雍正帝の逆鱗に触れ、取り潰しに至ったのでしょうか?それは大観園の贅沢三昧だけが原因ではなく、何より曹家が雍正帝の絶対的な権威を脅かしたことにあります。


皇恩を受けた曹家の栄光と贅沢

曹家の繁栄は、先祖の曹錫遠(そうせきえん)の時代にさかのぼります。明朝末期、曹錫遠は瀋陽で中衛指揮使という高官に就いていました。しかし、明朝が衰退して再興が望めなくなると、彼は努爾哈赤(ヌルハチ)に投じて清朝の正白旗包衣(内廷の下級官僚)となり、家運を大きく変える決断を下しました。

清朝成立後、曹錫遠の地位はさらに上昇し、康熙帝の時代には曹家の全盛期を迎えました。孫の曹玺(そうき)は皇宮の侍衛(護衛官)となり、さらに皇帝の乳母である孫氏と結婚していました。この縁から康熙帝と密接な関係を築き、曹家は朝廷の重臣として大いに栄えました。

康熙帝は、曹玺を江南地方の経済を担う江寧織造(こうねいしょくぞう)の責任者に任命しました。この役職は地位こそ高くないものの、莫大な利益をもたらす「肥差(美味しい仕事)」でした。また、江寧織造は地方官の監視役も担い、皇帝に直接報告する特権を持っていました。

曹玺の後任となった曹寅(そういん)は、才能豊かで康熙帝に愛される人物でした。彼の時代には、曹家はさらに発展し、康熙帝の江南巡幸時には4回も宿泊地に指定されるほどの影響力を持ちました。しかし、曹家の繁栄の裏で贅沢な生活が進み、家計は徐々に逼迫していきました。


雍正帝の激怒と曹家の没落

曹家の破滅は、財政問題だけでなく、雍正帝の皇位継承争いに関与したことが大きな要因です。曹家は皇太子胤礽(いんじょう)や八阿哥胤禩(いんし)を支持しましたが、最終的に皇位を継いだのは四阿哥胤禛(いんしん、後の雍正帝)でした。

雍正帝は即位後、前朝の勢力を徹底的に粛清し、曹家もその対象となりました。江寧織造の財務状況の悪化や奢侈生活、さらには皇位継承争いへの関与が問題視され、曹家は財産没収と関係者の逮捕という厳しい処罰を受けました。

曹雪芹がまだ12歳だった頃、この一連の事件を目の当たりにし、一族の栄華から没落に至る過程を体験しました。最終的に曹家は全面的な処刑こそ免れたものの、没落貴族として名を残すにとどまりました。


曹家の栄枯盛衰は、清朝皇権の交代に伴う旧勢力排除の象徴と言えます。雍正帝は自身の皇位を確立するために曹家を粛清し、これが中国封建時代の一つの時代の終焉をもたらしたのです。

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