2021年、アメリカで起きた「キャピトルヒル乱入事件」は、選挙で選ばれた政府を転覆させる公開クーデターが起こるのではないかと世界中で注目されましたが、最終的にはその結果は混乱に終わりました。しかし、アメリカの歴史において、選挙で選ばれた政府を転覆させた公開クーデターは確かに存在しました。その一例が1898年の民主党によるクーデターです。以下はその詳細について述べたものです。
南北戦争後の南部状況
1865年、アメリカの南北戦争は北部の勝利により終結し、アメリカ南部における黒人の地位向上が始まりました。南部での「再建計画」は、南部白人を優遇する内容でしたが、経済的崩壊と連邦政府主導の軍事統治により、南部白人の人種主義に深刻な打撃を与え、黒人や混血の指導者が地方政府を率いるようになりました。
特にノースカロライナ州のウィルミントン市は、南北戦争終了後、黒人による選挙勝利と北部の「再建軍事統治」によって支配権を握り、1880年には市の黒人住民の割合が60%に達し、南部の大都市の中で最も高い黒人比率を誇っていました。
白人至上主義者の反発とクーデターの準備
しかし、1876年にアメリカ共和党が南部の「再建軍事統治」を停止した結果、ウィルミントン市では白人至上主義者が黒人に対して暴力行為を加え、黒人の権利を制限し始めました。この状況に反発したのが、90年代初頭に経済的衰退に苦しんでいた白人労働者階級でした。これらの白人労働者と黒人の政治的代表者たちは、共和党に参加し、「融合派」と呼ばれる政治的連合を形成しました。この「融合派」は、ウィルミントン市政府と州議会の多数を占め、2人の黒人議員も選出されるなど、白人至上主義者にとって非常に脅威となりました。
1898年のクーデター
1898年11月、議会選挙を控えたウィルミントン市では、白人至上主義者たちが選挙戦で黒人や「融合派」支持者を威圧するために大規模な動員を行いました。彼らは「白人票」の投票を呼びかけ、選挙での勝利を目指しました。選挙戦の結果、「融合派」は選挙で敗北したものの、白人至上主義者はそれに満足せず、さらに過激な行動を起こしました。
1898年11月10日、武装した白人至上主義者たちは市内で暴動を起こし、黒人の集会所や黒人が所有するメディアを攻撃し、市長や市議会議員を辞任させました。彼らは市政府を占拠し、新たな白人至上主義者による市政府を樹立しました。この暴力事件は「ウィルミントン大虐殺(Wilmington massacre)」として記録され、数百人の黒人が死亡し、2000人以上が逃亡しました。
政権掌握とその後
このクーデターによって成立した新政府は、1899年3月の市政選挙を待たずに完全に支配権を握り、1898年3月の選挙で「合法的に」選出され、その後1905年まで支配を続けました。この一連の出来事は「1898年民主党クーデター」として知られています。そして、アメリカの主流メディアは「ウィルミントン大虐殺」を「起義」として報じ、今日でもこの出来事はあまり知られていませんが、黒人票を重視する民主党の歴史の一部として語られることが多いのです。