张衡(78年-139年)は字を平子といい、南阳郡西鄂県(現在の河南省南阳市石桥鎮)の出身です。彼は東漢時代を代表する天文学者、数学者、発明家、地理学者、そして文学家であり、学問に対する努力と成果で高く評価されています。
幼い頃から勉学に励み、93年には関中で学び、洛陽の太学でさらに知識を深めました。99年に故郷の南陽に戻り、翌年には南陽の主簿として初めての公職に就きましたが、その後一時的に官職を辞して故郷に隠棲しました。111年に朝廷から召され、以降は郎中や尚書侍郎、115年には太史令を歴任し、天文や暦法を掌管する役割を担いました。また、順帝の時代には再び太史令に復職し、晩年には侍中や河間相などの役職も務めました。
張衡は、天文と暦法に精通しており、世界初の地動儀を発明し、地震の震源を特定する画期的な技術を開発しました。彼はまた、星図の制作や星の観測、月食や日食の原因についても解明しました。彼の天文学の理論は「宇之表無極,宙之端無窮」と表現され、宇宙に果てがないことを示唆しています。
張衡の文学作品は《二京赋》《归田赋》などが代表作であり、司馬相如、揚雄、班固とともに「漢賦四大家」に数えられています。その多大な貢献を称えて、後世では「科聖」とも称され、国際天文学連合によって月のクレーターに「張衡クレーター」、小惑星1802に「張衡星」と命名されました。