中国の歴史上の著名人、諸葛亮(しょかつ りょう)は、181年に生まれ、234年10月8日に亡くなりました。字は孔明、号は臥龍で、琅邪郡陽都(現在の山東省沂南県)の出身です。三国時代の蜀漢の丞相であり、中国古代の傑出した政治家、軍事家、戦略家、発明家、文学家です。
諸葛亮は若い頃、叔父の諸葛玄とともに荊州へ移り住み、諸葛玄が亡くなった後は南陽で隠遁生活を送りました。劉備が荊州の劉表に頼った際、三度彼の庵を訪れて求め、諸葛亮は劉備に荊州と益州を占領し、孫権と連携して曹操に対抗するという「隆中対」を提案しました。劉備はその策略に従い、荊州と益州を占領し、孫権、曹操との三国鼎立を成し遂げました。章武元年(221年)、劉備が皇帝に即位し、諸葛亮を丞相に任命しました。その後、劉備が夷陵の戦いで孫権に敗れると、劉備は永安で諸葛亮に子劉禅を託しました。劉禅が即位した後、諸葛亮は武郷侯に封じられ、益州牧を兼任しました。彼は勤勉で慎重に政務を執り、厳格な賞罰を行いました。東呉との同盟を維持し、南西の諸民族との関係を改善し、屯田政策を実施して戦備を強化しました。
諸葛亮は五度にわたって中原を北伐しましたが、漢室の復興という目標を果たすことはできませんでした。建興12年(234年)、五丈原(現在の陝西省宝鶏市岐山付近)で病に倒れ、54歳で亡くなりました。後主劉禅は彼を「忠武侯」に追封し、後世では「武侯」として尊敬されています。また、東晋の桓温により「武興王」に追封されました。
諸葛亮の散文の代表作には「出師表」や「誡子書」があります。また、木牛流馬や孔明灯を発明し、連弩を改良した「諸葛連弩」は一度に10本の矢を発射できました。諸葛亮は生涯、「鞠躬尽瘁、死而後已」(身を粉にして尽力し、死んで後已む)を体現し、中国伝統文化において「忠臣」や「智者」の象徴的な人物とされています。