中国の古代著名な詩人:李白(唐代の詩人)
李白(701年 – 762年)は、字を太白、号を青蓮居士といい、唐朝の浪漫主義詩人です。後世に「詩仙」と称されました。祖籍は隴西成紀(要検証)で、西域の砕葉城で生まれ、4歳の時に父と共に剣南道の綿州に移り住みました。李白の詩文は千篇以上が現存し、『李太白集』として伝わっています。762年に病没し、享年61歳。墓は現在の安徽省当塗にあり、四川省江油市や湖北省安陸市には記念館が建てられています。
家族
『旧唐書』によると、李白の父は李客といい、任城尉を務めていました。母については記録がありません。
妻
- 許氏(元の名は許紫煙) – 初婚の妻であり、高宗の時代の宰相、許圉師(許紹の末子)の孫娘。
- 劉氏 – 南陵の名門の娘で、同居後に別離。
- 宗氏 – 東魯の人。李頗黎の生母であり、李白の側室。詳細は不明。
詳細な結婚歴
最初の妻は727年に湖北省襄陽で、友人の孟浩然の仲介により、前宰相・許圉師の孫娘を迎えました。実際には、婿入りする形での結婚であり、結婚後の10年間は、妻の家に住んでいたため、窮屈な生活を強いられ、李白は心中穏やかではありませんでした。それでも責任感をもって夫婦生活を営んでいたと考えられ、二人の間には男子と女子が一人ずつ誕生しています。男子は伯禽(小字は明月奴)、女子は平陽と名付けられました。許氏は738年に亡くなりました。
次の妻は739年、初婚から12年、前妻の死から1年後に、劉氏という女性と結婚しましたが、劉氏は李白を軽んじたため、李白は怒って別れました。
三人目の妻とは745年に山東省任城で出会い、結婚しました。李白は当時、首都の長安から金銀財宝を抱えて旅しており、同行していた杜甫や高適と河南省商丘で別れた後に泰山を訪れた際に彼女と知り合い、愛し合うようになりました。二人の間には男子が一人生まれ、李白は山東省兖州に多くの田地を残して、以降の旅に出ました。この田地は妻に委ねられ、李白が彼女を信頼していたことがわかります。しかし、結婚から5年後にこの妻も亡くなりました。
子供たち
- 長男 伯禽(? – 792年?、一説では頗黎) – 許氏の子で、李白が亡くなってから30年後に亡くなりました。
- 長女 平陽 – 許氏の子で、嫁いだ後に亡くなりました。
- 次男 頗黎 – 李白が東魯で女性との間にもうけた子ですが、行方不明となっています。