初めての出会い
朱見深が太子に立てられた後、何か不測の事態が起きないよう、孫太后は信頼できる側近の宮女を朱見深の世話に派遣しました。このとき、19歳の万貞児が初めて2歳の朱見深のそばに仕えることになり、運命とは無関係に思えた二人が政治的状況によって引き合わされたのです。
幼少期の付き添い
土木の変以降、2歳で太子に立てられた朱見深は、その幼さゆえに叔父の朱祁鈺が代わって国政を預かり(代宗となる)、幼帝朱見深の将来は危ぶまれました。代宗は権力欲が強く、捕虜となっていた英宗を救出しようともせず、英宗が瓦剌(オイラト)から返還された後も南宮に幽閉し、壁の穴から食事を渡す有様でした。
名目上の皇帝でさえこうした扱いを受けたのですから、幼い朱見深がどれほど厳しい目に遭ったかは想像に難くありません。代宗は自分の息子朱見済を太子に立てるため、朱見深を目障りに感じていました。ついに、代宗は多くの策を弄し、1452年に朱見深を沂王に格下げし、朱見済を太子に立てます。
しかし、朱見済は運命に恵まれず、太子に立てられてまもなく病没。これに打撃を受けた代宗の隙を突き、英宗が奪門の変を起こして皇位を奪還、朱見深も再び太子に戻ることとなりました。
「幸運な人は一生を幼少期に癒される。不幸な人は一生を幼少期に癒し続ける」といわれるように、宮廷の権力闘争に翻弄された朱見深にとって、幼少期に唯一そばで寄り添ってくれたのは万貞児だけでした。皇子として生まれながら、朱見深は家族からの愛情や温もりをほとんど感じることがありませんでした。
特に沂王として降格されていた時期、父は幽閉され、母は声を上げることすらできず、幼い朱見深は危険に満ちた日々を怯えながら過ごしました。この間、彼を慰め、細やかな世話をしたのは万貞児だけだったのです。
万貞児の寵愛
朱見深が皇帝に即位した後、後宮の女性たちにほとんど興味を示さず、年齢40歳近くの「容姿は男性的で声も低い」と評される万貞児だけを深く愛しました。母の周太后は息子の理解しがたい行動に首を傾げ、「あの者のどこにそんな美点があるのか」と尋ねたところ、朱見深は「彼女に触れられると安心する。見た目の問題ではない」と答えたといいます。
幼い頃の辛い時期に常にそばにいてくれた万貞児への依存は、朱見深にとって骨の髄まで染み込んでいたのです。
1464年、朱見深が即位すると、万貞児の出自が低いため皇后に封じることはできませんでした。しかし、35歳という高齢でありながら、彼女は後宮の寵妃たちを圧倒し、ついには我が物顔で振る舞うようになりました。
皇后の呉氏はこれを我慢していましたが、ついに杖で万貞児を打つ事件が起こりました。激怒した朱見深は、即座に呉氏を廃位。後に王氏が皇后に立てられますが、王氏はひたすら控えめに振る舞うことでようやく平穏を保つことができました。
1466年、万貞児は朱見深との間に初めての息子を産み、朱見深は大喜びして彼女を皇貴妃に封じました。これは明朝で生前に皇貴妃に昇格した唯一の女性でした。しかし、1年後にこの子は夭折。高齢の万貞児はその後子を産むことができなくなり、寵愛を保つため他の妃や皇子たちを次々と害しました。
1469年、柏賢妃が皇子を産みましたが、2歳で太子に立てられた後まもなく夭折。その背景には万貴妃が深く関わっていたといわれています。また、ある日、女官の紀氏が朱見深の寵幸を受けて懐妊。太監の張敏が紀氏の妊娠を隠したため、万貴妃は紀氏を殺すことができませんでしたが、紀氏は冷宮に追いやられます。その後、紀氏が産んだ息子が後の明孝宗朱佑樘です。
朱佑樘は6歳になるまで冷宮で育てられましたが、朱見深は万貴妃の影響を恐れ、朱佑樘を母・周太后のもとで育てさせ、彼が無事に成長することができました。一方で、冷宮を出た紀氏は淑妃に封じられたものの、まもなく急死。太監の張敏も自殺しましたが、これらも万貴妃の仕業だとされています。
最後の日々
万貴妃は1487年正月に病没。その後、朱見深は大きな打撃を受け、健康を損ない、同年8月に41歳で崩御しました。
生前、朱見深は万貞児に盲目的なまでの愛を注ぎ、万貞児が死んだ後もその深い愛情が彼を死に追いやったといえます。二人は同年に死去し、生き方も死に方も共にしたといえるでしょう。