孫武(約紀元前545年 – 約紀元前470年(別説によれば前480年))、字は長卿。斉国楽安(現在の山東省、詳細は「人物争議」部分を参照)出身であり、春秋時代の軍事家である。
孫武は陳国貴族の後裔である。周景王13年(紀元前532年)、斉国で内乱が発生し、孫武は混乱を避けて呉国へ亡命。呉に入国後は長期間隠遁し、兵学の研究に専念していた。呉王闔閭が即位した際、孫武は伍子胥の度重なる推薦を受け、著書の兵法十三篇を闔閭に献上し、将軍に任命された。周敬王14年(紀元前506年)、孫武は伍子胥と共に、唐や蔡の両国との楚国の対立を利用し、両国を呉の同盟国として取り込む策を謀った。その後、伍子胥らとともに闔閭に従って大軍を率いて楚を攻撃し、柏挙の戦いで楚軍を大敗させ、勢いに乗って楚の都である郢を占領した。
孫武は50歳を過ぎた頃から呉国の対外戦争には従事せず、隠居して兵法の著作を修訂し、寿命を全うした。
孫武は「孫子」と尊称され、「兵聖」や「兵家の至聖」とも称されており、「百世の兵家の師」、「東洋兵学の祖」として名高い。著書『孫子兵法』は、中国現存最古の兵書である。この書物は戦争における勝利の法則、戦略の原則、戦場での戦術、軍の後方支援などを豊富な内容と簡潔な文章で論じ、戦争における主観的な能動性と客観的な対応を強調しており、弁証法に満ちている。その基本原則は後世において社会や経済の各方面で広く応用され、英語、フランス語、ドイツ語、日本語など多言語に翻訳され、後世に深い影響を与えている。