清朝の歴史ドラマを見ると、兵士の服に「兵、丁、卒、勇」という四つの字があるのに気づくでしょう。特に「卒」は「兵」の意味も含んでいるのに、なぜ二つの字を使うのでしょうか?

実際には、これらの字は意味が似ていても、一字の違いで異なる社会的地位を表しています。「勇」と「丁」も同様です。それぞれの字にはどんな意味があるのでしょうか?

「兵」は最も地位が高く、通常は清朝の正規軍である八旗軍を指します。八旗軍は満族人で構成されており、皇太極とともに南征北戦し、李自成と南明を打ち破り、清朝を地方政権から全国政権に変えました。

入関後、八旗軍は功臣として高い待遇を受け、農業生産を行わず、職業軍人となりました。月々の給与のほか、住宅建設や冠婚葬祭などの福利も清政府が負担しました。八旗軍は京師八旗と駐防八旗に分かれ、京師八旗の待遇は地方駐防よりも高かったです。

さらに、清朝には八旗軍だけでなく、緑営という正規軍もありました。緑営は漢人を主体とし、八旗軍が苦手とする攻城戦を補い、全国統治を支えるために設立されました。八旗の兵士は特権を持つ固定されたグループでしたが、緑営の兵士はそうではなく、待遇も八旗軍ほど良くはありませんでした。それでも、緑営は三藩の平定など、清朝にとって重要な役割を果たしました。

八旗軍が衰退するにつれて、緑営が清朝の重要な支柱となりましたが、土着化や分散化などの欠点もあり、内外の危機に対応するには限界がありました。

「兵」と比べて、「勇」の待遇ははるかに劣りました。「勇」は清朝の内部統治危機が深刻化する中で補充戦力として登場しましたが、独立した戦闘能力はなく、基本的に八旗軍や緑営と協力して行動しました。「勇」は「郷勇」とも呼ばれ、民間から集められた兵士です。

清朝の前中期では、八旗軍や緑営が農民反乱軍を鎮圧するため、「勇」の使用は厳しく制限され、臨時的な措置に過ぎませんでした。訓練を十分に受けていないため、戦場では多くが犠牲となり、戦争が終わると大部分は解散されました。

太平天国運動の勃発により、「勇」は再び歴史の舞台に登場しました。洪秀全らの反乱が急速に広がり、太平天国と清朝は十数年にわたって対峙しました。

戦争には前線の兵士だけでなく、後方支援を担当する人々も必要で、「丁」は主に糧秣の運搬や護送を担当しました。彼らは強制徴兵の産物で、各家庭から人を出す必要がありました。任期は通常3年で、仕事は重く雑多でした。

中には服役を避けるために銀を支払う者もいましたが、それができない者は服役させられ、このような不合理な方式は多くの家庭を破綻させました。

「丁」は軍隊内で地位が低く、しばしば軽視され、給与も低く、生活は困窮しました。家計を助けることも難しく、無事に服役を終えるのがやっとでした。それでも、比較的楽な仕事もあり、「庫丁」は倉庫の管理、「税丁」は税の徴収、「塩丁」などがありました。総じて言えば、後方支援の仕事を担当しました。

「卒」は主に治安維持と囚人の管理を担当し、清朝の編成内の職員でしたが、収入は低く、年間の給与は6両の銀しかありませんでした。そのため、多くの「卒」兵は権力を利用して利益を得ようとしました。例えば、囚人が入獄した際に所持品を没収し、売れるものは狙われました。

監獄では囚人の家族の面会が禁止されており、「卒」兵は「面会料」を受け取り、適当な値段であれば目をつぶりました。また、治安維持の「卒」兵は「文書料」や「差罰料」などの名目で不当な金銭を要求しました。民衆は面倒を避けるために、言われるままに銀を渡し、これらの不正収入で「卒」兵の生活は何とか成り立ちました。

「兵、勇、丁、卒」の四つの字は、一字の違いで異なる地位と運命を表していました。「兵」と「勇」の違いは、清朝の末期を変えることはできませんでした。湘軍に代表される勇営も清朝の危機に対処するための臨時措置に過ぎませんでした。同時に、湘軍の登場は清朝の軍権が皇権から地方に移ることを示し、中央集権の清封建王朝の滅亡は時間の問題であることを示していました。

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