元泰定帝(げん たいていてい)、本名ボルジギン・イェスン・テムル(1276年〜1328年)は、元朝第6代皇帝であり、元世祖フビライの曾孫にあたります。父は裕宗カンマラ、祖父は世祖の皇太子であった真金です。1323年に即位し、在位5年間(1323年〜1328年)にわたる治世を通じて、政治と文化の安定を図りましたが、その統治には功罪が分かれる面もありました。
即位と背景
1323年、南坡の変により前皇帝である元英宗シデバラが暗殺されると、イェスン・テムルはモンゴル高原の上都で擁立され、皇帝として即位しました。これにより、元朝の統治の中心は一時的に上都に移り、宮廷内では権力闘争が続く中での治世となりました。
治世の主な特徴
- 内政の安定化
泰定帝は、混乱する国内の秩序回復に尽力しました。特に地方の反乱鎮圧と諸侯の統制を進め、中央集権化を目指しました。貴族や王族を安定させるために、恩赦や土地の再分配を行うなどの政策も実施しました。 - 文化・経済の発展
在位期間中、農業振興と交易路の保護に努め、経済の安定を図りました。また、上都を中心とした宮廷文化が栄え、元朝の多民族的な文化融合を象徴する政策が進められました。 - 仏教の振興
泰定帝は仏教を厚く信仰し、仏教徒への保護政策を実施しました。寺院の建設や仏教儀式の奨励を通じて、仏教文化がさらに広まりました。 - 儒教の軽視と批判
泰定帝は儒教的な政策よりもモンゴル的な伝統や仏教政策を優先させたため、漢人官僚や儒学者からの反発を招きました。この点が後世の批判対象となっています。
晩年と死
1328年、泰定帝は上都で病没しました。その死後、宮廷内では再び権力闘争が激化し、クーデターや政争の末、元文宗トク・テムルが皇位を継承しました。この混乱は元朝の中央統治力の低下を示すものであり、後の滅亡の兆候ともなりました。
評価
泰定帝の治世は比較的平穏な時期であり、一部では元朝の安定期とされています。しかし、儒教的な政策を軽視し、仏教優遇や貴族層への配慮を重視したことから、儒教的な視点では批判的に捉えられることもあります。泰定帝の死後、彼の治世の影響は一部評価されながらも、混乱の時代を招いた要因としても言及されることが多いです。
崩御後、廟号「泰定帝」が贈られ、その時代を象徴する重要な人物として記録されています。